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藍染めとはなにぞや
其の九

『阿波藍』

 藍染めといえば『阿波藍』の産地、徳島を思い浮かべる方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 徳島へ行くとお土産もの屋さんにも特産品としてたくさんの藍染め製品が売られていますし、藍関係の観光名所も県内にあります。

 なぜ徳島が藍で有名かというと、それは藍染めの原料である藍草(あいぐさ:いくつか品種がある中、ここでは蓼藍では狭義なため、藍草で表現します。)の良品の特産地だったためです。

 

 染料として人類最古と云われている藍草と藍染めの技術が、中国や朝鮮半島からの渡来人によって、日本へ初めて伝えられたのは5世紀頃と云われています。

 現在の徳島県である阿波で藍草の存在が文献で見受けられるのは、1247年(宝治元年)の記録で、その約300年後の1549年(天文18年)に蒅の製法が伝わります。その後1585年(天正13年)に蜂須賀家政(はちすが いえまさ)が阿波藩主になった際に、すでに栽培が行われていた藍草に関する手厚い保護政策を行ったことで、特産品へとなる推進力を得ます。

 

 徳島には県内を貫く『吉野川』という乳緑色の美しく大きい河が流れています。この吉野川がかつて、ちょうど農作物を収穫する前に毎年のように氾濫する暴れ河でした。治水対策に悪戦苦闘する中、連作を嫌い、良質に育てるために高価な肥料を膨大に必要とする藍草は、氾濫時期以前に収穫が出来、更に氾濫により上流から肥沃な土が運ばれ土地が一新するため、この地に好条件の作物でした。阿波の気候とも相性が良かったことも功を奏しました。

 

 収穫された藍草は、運搬や販売に適う状態にするため、蒅にした後、更にそれを臼で搗き固め加工した『藍玉(あいだま)』にされ、阿波の藍商人たちにより全国津々浦々に運ばれ販売されることとなります。中でも藍栽培から蒅や藍玉製造まで行い、持ち船で運搬し、藍流通を一貫して管理販売する商人のことを阿波では大藍師と称したそうです。

 そうした彼らの優れた商才による活躍も、阿波藍が長い間市場を独占し続け繁栄した大きな一因でした。

 更に江戸時代には木綿が庶民にも拡がり、藍染めの需要が高まります。そんな中で特上品の阿波藍は高値で取引きされ、その名を揺るぎないものにしたのでした。

 その栄華はインド藍や化学染料が輸入され、それらが台頭する明治まで続きました。

 

 それから様々な遍歴を経て、現在、市場では合成藍染め、化学建て藍染め、そして数少ない天然建て藍染めを入り交ぜて、【藍染め】として売買されているのが現状です。残念ながら、阿波藍の国、徳島でも変わりありません。

 それでも、【阿波藍】は戦時下や歴史の荒波の中、職人や有志に大切に守られて、希少となりましたが健在しています。

 近年、師匠を始め、その阿波藍の存在価値をこれからも守っていくため、尽力している方が少なからずいらっしゃることが唯一の希望です。

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